死を意識すると生きるということが鮮明になる

photo by A. M. D.

今から21年前、1995/1/17に阪神淡路大震災があった。
当時関西に住んでいたけれどまだ小学生で鮮明な記憶が残っているわけではない。クラスメイトが兵庫県に引っ越しして大丈夫かなと思った記憶はかすかに残っている。幸い住んでいた地域は大きい被害は出ていなかったと思う。けれど連日ニュースで流れていた衝撃的な映像の印象は残っている。
「あんたら子どもを布団かぶせてその上にかぶさったんやで」と親に言われたことがある。それぐらい揺れが激しかったみたい。

もう少し大きくなって、淡路島野島断層記念館に行く機会があった。普段立ったり歩いたり走ったりしている地面、あの固い地面がこんなにも変化している、そういう衝撃をうける。ものすごい自然の力をまざまざと見せつけられた。機会があれば一度行ってみのもいいかと思う。

死を意識すると生きるということが鮮明になる

突然の出来事で日常ががらっと変わる。今まで当たり前にくると思っていた明日がこない。全然違う世界に変わってしまう。最悪明日という日を味わえなくなる。
テロや戦争が身近にない日本のような環境だと今日と同じような明日があることが当たり前に感じている。当たり前だと思い込んでいる。

人間は必ず死ぬことはわかっている。わかっているけれどもその時期はずっと先だろうと思い込んでいる。日本人の平均寿命が80歳を超えているし医療も発達しているのだから80歳は生きるだろう、そう思い込んで人生設計を考えようとしている。無意識のうちにやってしまっている。明日が必ずくる保証なんてない。もしかすると車と事故にあうかもしれない。火事にあうかもしれない。何かのはずみで命を落とすかもしれない。

そうは言ってもそんなことは滅多に起こらないかもしれない。事実起きない可能性の方が高い。どちらかというと意識の問題。明日という日がもしかしたら来ないかもしれない。それなら今日という日をどのように過ごしたいか。やりたくないことをするのか。やりたいことをするのか。いろいろ考えさせられる。

死を意識することで生きるということがよくわかるようになる。終わりを意識することで自分は何をしたいのか何を残したいのかをより深く考えるようになる。したくない後悔をしないようにするにはどうすればいいかを考えるようになる。

これは自分のことだけではない。自分の大切な人の命の終わりも同じだ。大切な人がずっとそばにいることはない。いつかは別れの時がやってくる。その時に後悔のないように生きるにはどうすれば良いのか、時間をとって考える必要はある。

どこかの記事で読んだことがあるけれど、死ぬ間際に後悔することで多いのが「やっておけばよかったな」ということらしい。

自分の葬式で死に画を見られるかもしれない、棺を担いでもらうかもしれない

どうしてこんな内容のことを書こうと思ったのか。阪神淡路大震災があった日というのもあるけれど、LINEで親からこんなメッセージが送られてきた。

年下の人に敵わないのは自分よりも先まで生きるということ。自分が死んだ時に生きているということ。
葬式で死に顔を見られるかもしれない、棺を担がれるかもしれない。
そういう人達に偉そうにしてはいけない。礼を尽くさないといけない。
親戚、仕事関係で何十回と葬儀に参列してそんなことを肝に銘じている。

いきなりこんなメッセージが送られてきてびっくりした。こんなメッセージを送りたい気持ちになった出来事があったんだけれどここでは伏せておく。

正直うれしいなと感じた。
なにが嬉しいんだろう。生きる上で大切なことを伝えてくれたということが嬉しいんだと思う。

自分の生きたいように生きよう。
そんなことを再度思い出した日でした。